子育てにたとえるなら。
「目的のある行動と無目的な行動」の話かなぁと。
親としては子どもが「今すぐ役に立たないこと」に時間使うの、めちゃくちゃ不安やん。
「公園でボーッとしてる時間」
「同じアニメを何十回も見る」
「友達とくだらん話してゲラゲラ笑ってる」
全部「無駄」に見えるけど、これが「知の網目」を作ってるんやと思ったら、親の見方変わるよな。
効率求めすぎて、子どもの脳内から「冗長性」ってやつを奪ってたかもしれん。
何がどこで役に立つかなんてわからないし、何より子どもの「何かに没頭すること」を親が奪ってはならない。
私が10代~20代前半にかけて得た、生涯の財産といえる経験は
「有用性(役に立つこと)を度外視し、ただ楽しむためだけの読書」
に没頭できたこと。
一般に20代も中盤に入ると、人は生存のために金を稼がねばならず、どうしたって「有用性」を意識せざるを得なくなる。だが、
有用性の世界に時間と認知資源を投下することは、
「狭い檻の中に、自身を閉じ込めること」
と同義でもある。
それは、資本主義(新自由主義)のジャングルを生き延びる、端的に言えば金を稼ぐといった限定的な場面においては最適化された学びといえるかもしれない。
けれども、ひとたびノウハウや専門知識が活きる世界から離れた環境において、複雑な問題の解決を迫られたとき、その人はどうなるか。
恐ろしいことだが、解を導くための道具を持たず、丸腰で臨まなければならなくなるだろう。
なぜならノウハウとは、特定の前提条件の下でのみ機能する「局所解」に過ぎないから。
有用性のみを追求する学びが「局所解」に留まるのは、それが既に設定された特定の問いに答えるための最短経路だからである。
しかし、多読濫読がもたらす読書体験は、効率性の檻から私たちを解き放つ。
それは、特定の目的に縛られず、歴史、哲学、文学、科学といった広大な領域を無秩序に巡る旅に等しい。
この旅の中で得られる膨大な情報、物語、そして多様な思考様式は、脳内に強固かつ無目的な「知の冗長性」を構築することとなる。
局所解が線で結ばれた一本の道だとすれば、楽しみのための読書は、無数の点と線で織りなされる「知の網目」を編み上げる営みといえる。
複雑な問題が目の前に現れたとき、ノウハウしか持たない人は、手持ちの線が途切れた瞬間に思考停止に陥る。
しかし、多読によって無目的に蓄積された知識は、一見無関係に思える分野の概念同士を、深層意識下で予期せぬ形で結合させ始める。
この結合は「創発的な解決」と呼んで差し支えないが、これこそが多読によって得られる真の価値だと思っている。
特定の専門分野からは決して見えなかった、全体を俯瞰した鳥瞰的な視座からの解であり、新しい文脈と文脈を繋ぎ合わせる「知の跳躍」を可能にする。
ちなみに、こうした強靭な網目を編み上げる原動力は、純粋な「楽しみ」以外には存在しない。
義務感や報酬に駆り立てられた学習は、途中で疲弊し、モチベーションが枯渇する。
しかし、「好きだから、好きなのだ」という純粋な好奇心のみに突き動かされた読書は、学びそのものが自己目的化し、無限の知的体力を供給してくれることとなる。
この途切れることなき知的探求こそが、人生というオープンワールドにおける武器と地図、つまり絶望的な状況をも乗り越えるための思考と精神の強靭性をもたらしてくれる。
ところで、このポストをここまで読んでくれた人の中で、10代~20代前半の若者がどれほどいるかは分からない。
けれども、もし該当する方があれば、今しかできない「楽しみのための読書」に没頭することをお薦めしておくよ。
次に、その時期を既に通り過ぎてしまったあなたについては次善の策として、いちど有用性の世界にどっぷりと浸り、一日も早く、一生分の金を稼いだ後、
「有用性(役に立つこと)を一切気にしない、楽しみのためだけの読書」
に回帰する、というアプローチはありかもしれないと提案しておきたい。
うまくすれば、人生において
「無用の用→有用性の追求→無用の用→有用性の追求→無用の用・・・」
のサイクルを何度も回せるようになるし、実際に、私(規格外)自身もすでに3~4回ほど、この螺旋階段を昇ってきた。
両者を行き来するほどに幸福度が高まる上、人生や生活の冗長性が増していくことを体感している。